人と自然 ―― 共鳴の方へ

人は、かつて自然の中に生きていた。
風の音を聞き、土の匂いを感じ、時に畏れながら、そこに命を重ねてきた。

だがいつからか、自然は「管理するもの」になり、人は「自然の外側」で生きているように思い込んできた。

それでも今、その思い込みのほころびが静かに見えてきている。
人が減り、山が戻り、獣が歩き、世界はゆっくりと“人間中心”の夢から目を覚ましつつある。


触れすぎず、離れすぎず

自然に手を入れることは、悪ではない。
人が暮らすことで、山は呼吸を整えてきた。
けれど、関わりすぎれば壊れ、放っておけば荒れる。

そのあいだを探すこと。整えすぎず、放置しすぎず。
人の都合ではなく、自然のリズムに耳を傾けて動くこと。
それが「調和」という言葉の、本当の意味かもしれない。

理屈ではなく、感覚から始める

自然は、頭で考えるよりも先に、肌で感じるものだと思う。

朝の空気の湿り、木々のざわめき、動物の気配。
それらはデータではなく、世界から届く“挨拶”のようなものだ。

感覚を閉ざせば、世界の声は遠のく。
もう一度、心の耳を澄ませていたい。

恐れを忘れない

自然は優しいばかりではない。
風は家を倒し、雨は街を飲み込み、熊や猪が人の領域を越えてくる。

けれど、その恐れの中にこそ、人は「生きている実感」を見出してきた。

恐れは、支配を戒める“知恵”だ。
畏怖を忘れた社会は、自然を見誤る。

思いを残す

人が減り、村が消えていく。それは悲しいことだ。
しかし、土地を離れても、心まで放棄する必要はない。

祈り、記憶、祭り、言葉――
それらは、人がこの地にいたという証になる。
自然は、そうした“思い”を抱きしめるように再生していく。

だからこそ、人がいなくなっても、思いは残せる。
そしてその思いが、やがてまた人を呼ぶのだろう。

考え続けるということ

自然を理解することは、たぶんできない。
だが、考えることはできる。

考えることをやめるのは、自然を見捨てることと同じだ。

「なるようになる」と言うのは、手放しではなく、“信じる”ということ。
自然に委ねながら、なお考え続ける。
その静けさの中に、人の成熟がある。

共鳴という生き方

自然と人との間に、完全な調和はない。
けれど、互いの呼吸が重なる瞬間がある。

朝の光に立ち止まり、雨の匂いにふと息を合わせる。
その短い瞬間に、人と自然は、確かにひとつになる。

共鳴とは、自然を支配せず、無関心にもならず、
ただ世界と同じリズムで生きること。


その静かな共鳴の中にこそ、人が再び自然と共に生きる道がある。


誰もかそうある必要はないが、
自然の近くで暮らしている人には、支えになればいい。

―― marodeoja01

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